榎本武揚はなぜ明治政府で重用された?黒田清隆の助命と裏切りの真相

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榎本武揚はなぜ明治政府で重用された?黒田清隆の助命と裏切りの真相
榎本武揚はなぜ明治政府で重用された?黒田清隆の助命と裏切りの真相
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🎵 榎本武揚はなぜ明治政府で重用された?黒田清隆の助命と裏切りの真相

幕末の動乱を締めくくった箱館戦争において、旧幕府軍の総裁として五稜郭に拠点を構え、新政府軍に対して最後まで抗戦を指揮した男が榎本武揚です。国家反逆の首謀者であり、敗軍のトップとして処刑される運命にあったはずの人物が、奇跡的な助命を経て明治政府の中枢へと駆け上がり、海軍卿をはじめ外務・文部・農商務・逓信などの各大臣ポストを歴任しました。

なぜ明治新政府は、かつての宿敵をこれほどまでに重用したのでしょうか。ネット上や歴史ファンの間では「土方歳三を見殺しにして生き延びた裏切り者」「保身の達人」といった冷ややかな言説が散見される一方で、当時の日本が直面していた列強の脅威と、榎本武揚という傑物の特異な才能を再評価する声が強まっています。黒田清隆による決死の助命工作の舞台裏から、盟友・土方歳三との絆、東京農業大学の創設、そして現在に続く子孫の系譜まで、一次資料と最新の歴史研究からその実像を紐解きます。

📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
  • 要点1:箱館戦争の敗将でありながら重用された最大の理由は、国際法・蒸気機関・造船・測量に精通した「日本唯一無二の国際基準テクノクラート」だったため。
  • 要点2:新政府軍参謀の黒田清隆は、榎本から託された国際海事法規本『海律全書』の価値に衝撃を受け、自らの丸坊主姿で西郷隆盛や太政官に命がけの助命嘆願を強行した。
  • 要点3:「裏切り者説」は福澤諭吉の『痩我慢の説』などに起因するが、当の榎本は自決を制止された後、北方領土交渉や科学技術振興(東京農大創設等)で近代日本の防波堤となった。

【真相究明】榎本武揚はなぜ重用されたのか理由|黒田清隆が命を賭した助命劇の舞台裏

1869年(明治2年)5月、函館・五稜郭。官軍による総攻撃が激しさを増すなか、榎本武揚は敗北を完全に悟っていました。ここで榎本が取った行動こそが、自らの運命を激変させ、ひいては日本の外交・科学史を大きく変える端緒となります。榎本は、オランダ留学時代から肌身離さず所持し、自らの注釈を書き加えていたオランダの国際海事法解説書『万国海律全書(海律全書)』2冊を、敵将である新政府軍参謀・黒田清隆へ送り返したのです。「この書は戦火で焼失させるにはあまりにも惜しい国家の財産。どうか役立ててほしい」という添え状とともに届けられたこの貴重書に、薩摩隼人である黒田は言葉を失うほどの衝撃を受けました。

黒田清隆は、敵将の尋常ならざる器量と、日本全体の国益を見据えた行動に深く胸を打たれました。返礼として黒田が陣中から贈ったのは、海軍の軍陣用酒5樽とマグロなどの魚。両者は敵味方の境を超えて前哨基地で会談し、榎本は部下の助命と引き換えに降伏を決断します。しかし、京都の明治政府首脳部では「朝敵の首魁を処刑するのは当然」とする強硬派が多数を占めていました。

このとき、榎本武揚の命を救うために前代未聞の行動に出たのが黒田清隆本人です。公刊戦史や当時の記録によると、黒田は榎本の処刑に強硬に反対し、「榎本を殺すなら自分も腹を切る」と詰め寄りました。さらに黒田は抗議と覚悟を示すために自ら頭を丸めて坊主頭となり、西郷隆盛や大久保利通、三条実美らに向けて執拗な助命嘆願を繰り返しました。西郷自身も黒田の気迫と榎本の器量を認め、処刑方針の緩和に動いたとされています。

明治政府が最終的に榎本武揚を許し、異例の厚遇を与えた本質的な理由は、単なる情実ではありません。当時の日本を取り巻く緊迫した国際情勢において、「榎本の頭脳を失うことは、新生日本の近代化そのものを数十年遅らせる」という冷徹な国家戦略判断が働いたためです。欧米列強による植民地化の危機が目前に迫る中、流暢なオランダ語と英語を操り、国際法(万国公法)を盾に列強の外交官と対等に交渉でき、かつ大型洋式軍艦の運用や海洋測量を実践指揮できる人材は、日本全土で榎本武揚をおいて他に一人も存在しませんでした。

当時のメディア報道・掲載写真
【検証資料 1】当時のメディア報道・掲載写真(出典:bakushindoko.jp)

オランダ留学と開陽丸から五稜郭へ|生い立ちと激動の経歴年表

榎本武揚(幼名・釜次郎)は1836年(天保7年)、江戸・下谷御徒町の幕臣(徒士武士)の家に生まれました。父・榎本武規は測量家・伊能忠敬の高弟であり、天文学や数学の素養を持つ家庭環境が、武揚の合理主義的な精神の土台を築きました。昌平坂学問所で学問を修めた後、長崎海軍伝習所に入所。勝海舟の後輩として頭角を現し、幕府の命を受けてオランダへの官費留学(1862〜1867年)を果たします。

約5年間に及ぶ欧州滞在で、榎本はハーグで造船学・蒸気機関理論・砲術・海洋測量だけでなく、当時の日本人が誰も知らなかった国際海洋法(万国海律)を徹底的に学びました。さらに、幕府がオランダに発注した当時最新鋭の主力軍艦「開陽丸」の建造監督を務め、完成した同艦に乗艦して大西洋・インド洋を横断。日本へ無事に回航するという過酷な任務を成功させました。帰国直後、榎本は幕府海軍のトップである海軍奉行並に抜擢されます。

年代榎本武揚の行動・キャリア当時の日本国内情勢歴史的意義と評価
1862〜1867年オランダ留学、開陽丸の建造監督と日本回航尊皇攘夷運動の過激化、薩長同盟締結西洋近代科学と国際法をマスターした唯一の幕臣となる
1868〜1869年品川沖を脱走、五稜郭で「蝦夷共和国」総裁に就任江戸開城、戊辰戦争勃発、箱館戦争日本初の入札(選挙)を実施。軍艦開陽丸を暴風雨で喪失
1869〜1872年降伏後、東京・小伝馬町などの牢獄で禁錮刑(約2年半)廃藩置県、岩倉使節団の派遣獄中で化学実験や測量学の翻訳に没頭。黒田の助命運動が結実
1874〜1878年特命全権公使(ロシア駐在)、海軍中将兼任佐賀の乱、西南戦争樺太千島交換条約を調印。北方国境を平和的に確定させる
1885〜1897年内閣制度発足後、逓信・文部・外務・農商務大臣を歴任大日本帝国憲法発布、日清戦争官僚機構のテクノクラートとして実務を牽引。徳川育英黌を創設

1868年、江戸城の無血開城に従わず、榎本は「幕臣の生活基盤確保」と「北方の警備」を大義に掲げ、開陽丸をはじめとする旧幕府海軍艦隊8隻を率いて品川沖を無断脱走しました。仙台で新選組や旧幕府陸軍の残党を収容して北海道へ渡り、箱館・五稜郭を制圧。士官以上の入札(投票)によって榎本が「総裁」に選出され、フランス軍事顧問団の助力を得て独立政権(いわゆる蝦夷共和国)を樹立します。しかし、主力艦・開陽丸の座礁沈没という致命的な事故と、新政府軍の圧倒的な物量と最新鋭装甲艦「甲鉄」の前に、戦況は急速に悪化していきました。

土方歳三との関係と「裏切り者説」の真相|五稜郭ラストサムライたちの葛藤

五稜郭における榎本武揚を語る上で欠かせないのが、新選組副長・土方歳三との関係です。国際基準の知性派テクノクラートである榎本と、実戦叩き上げの戦術指揮官である土方。出自も気質も対極に見える二人ですが、箱館での共同生活と軍事作戦を通じて、極めて強固な信頼関係を築いていました。

榎本政権下で土方は陸軍奉行並に就任し、二股口の戦いなどで新政府軍を相手に驚異的な防衛戦闘を繰り広げました。榎本は土方の軍事的才能を誰よりも高く評価しており、土方もまた榎本の持つ国家規模のビジョンと人間的魅力に深く傾倒していました。1869年5月11日、新政府軍の箱館総攻撃のさなか、孤立した弁天台場を救出に向かった土方歳三は、一本木関門付近で腹部に銃弾を受けて非業の戦死を遂げます。土方の戦死報を受けた際、榎本は人目も憚らず号泣し、「自分は土方とともに討ち死にすべきであった」と痛哭したと伝えられています。

その後、五稜郭開城の前夜、榎本は責任を取って自刃を試みました。短刀を自らの胸に突き立てようとした瞬間、側近の大塚霍之丞らが必死に組み付いて刀を奪い取り、命を取り留めたのが歴史の真実です。しかし、この一命を繋いだ事実が、後世において「土方は美しく散ったのに、榎本は生き恥を晒して敵に寝返った」「旧幕臣を見捨てて保身に走った裏切り者」という根強い風評被害を生むことになりました。

裏切り者批判を決定的にしたのが、思想家・福澤諭吉が執筆した『痩我慢の説』(1891年脱稿、1901年公表)です。福澤はその著書の中で、勝海舟と榎本武揚の二人を痛烈に名指しで批判しました。「幕府が滅びたならば、それに殉じて死ぬか、あるいは隠遁して生涯を終えるのが武士の『痩我慢』という美徳である。敵の軍門に下り、あまつさえ高官に登用されて平然としているのは節操がない」という手厳しい指弾でした。

これに対し、榎本武揚は福澤からの書簡に対して怒ることも弁明することもなく、ただ「ご高見拝受いたしました。なお精進いたします」という趣旨の極めて儀礼的で短い返答のみを返し、公の場では一切沈黙を守りました。榎本にとって、個人のメンツや武士道的な美学よりも、「ロシアの南下から北海道と北方領土を守り、近代産業と科学技術を日本に定着させる」という生きて成すべき現実の職責の方が、遥かに重かったのです。

活動歴および当時の関連ビジュアル記録
【検証資料 2】活動歴および当時の関連ビジュアル記録(出典:kotobank.jp)

明治政府での驚異的役職と功績|樺太千島交換条約から東京農業大学創設まで

1872年(明治5年)に特赦によって出獄した榎本は、黒田清隆が長官を務める開拓使に出仕し、北海道の資源調査や炭鉱開発に着手しました。その後、彼の国際感覚と語学力を買われ、1874年に特命全権公使としてロシア・サンクトペテルブルクに赴任します。当時、樺太(サハリン)では日露両国民の雑居により衝突が頻発し、軍事的に優位なロシアが実力行使に出る危険性が極めて高い状態でした。

榎本は巧みな国際法知識とロシア外務省首脳との粘り強い外交交渉を駆使し、1875年(明治8年)に樺太千島交換条約の締結に成功します。樺太全島の領有権を手放す代わりに、得撫(ウルップ)島以北の千島列島全域を日本領として平和裏に確定させたこの条約は、当時の非力な日本の軍事力に照らし合わせれば望み得る最良の外交的勝利でした。

帰国後の榎本は、内閣制度創設以降の近代日本行政において、まさに「実務の万能プレイヤー」として激務をこなしました。

  • 海軍卿(1880年):近代日本海軍の制度設計、艦船調達方針を確立。
  • 初代逓信大臣(1885年・第1次伊藤内閣):郵便・電信・灯台管理など近代インフラを一手に統括。現在も使われる郵便マーク「〒」の制定に深く関与。
  • 文部大臣(1889年・黒田内閣):森有礼暗殺後の混乱を収拾し、実学教育や理科教育の普及を推進。
  • 外務大臣(1891年・第1次松方内閣):条約改正交渉の基盤整備や、メキシコ・中南米への移民事業(殖民協会設立)を主導。
  • 農商務大臣(1894年・第2次伊藤内閣):足尾銅山鉱毒事件の現地視察と抜本的な対策に着手。

さらに特筆すべきは、東京農業大学創設の経緯です。榎本は幕臣の子弟を救済・育成するために組織されていた「徳川育英会」の会長を務めていました。欧米の強国が農業と工業の科学的基盤に立脚していることを痛感していた榎本は、1891年(明治24年)、徳川育英会の中に「育英黌農業科」を設立しました。これが現在の東京農業大学の前身です。

「農学の根本は実験・実習にある」「理論だけでなく泥にまみれて国富を支える人材を育てる」という榎本の教育理念は、現在も東京農大の精神的バックボーンとして受け継がれています。その他にも、化学会、電気学会、地学協会など数多くの学会・学術団体の創設・運営に関わり、日本の理系学術の揺籃期を支え続けました。

【血脈と最期】子孫の現在と家系図|死因と「最後に見せた人間味」

閣僚を退いた後の榎本武揚は、向島(現在の東京都墨田区)の隅田川沿いに構えた質素な屋敷で、余生を愛する科学実験や動植物の研究、地域の人々との交流に費やしました。晩年の榎本は権力を誇ることもなく、近所の子どもたちを集めて望遠鏡で星を見せたり、理科の手品を披露して喜ばせるなど、飄々とした好々爺として親しまれていました。

1908年(明治41年)10月、長年の激務がたたり、病気療養中であった榎本は脳溢血(のういっけつ)を発症。同年10月26日、向島の自宅で息を引き取りました。享年72(満71歳)。死の直前、明治天皇から見舞いの品が下賜され、葬儀には敵味方を超えて旧幕臣、明治政府首脳、外交使節、学術関係者など数千人が詰めかけました。墓所は東京都文京区本駒込の吉祥寺にあります。

榎本武揚の家系と子孫についても、各方面で優れた足跡が残されています。榎本家は武揚の功績によって子爵に叙せられました。

  • 長男・榎本武憲:貴族院子爵議員を務めた後、農商務省の官僚として実務に従事。武憲の妻は、なんと武揚の命の恩人である黒田清隆の長女・梅子でした。かつて敵味方として刃を交え、命がけで助命し合った二人の血筋が、婚姻によって固く結ばれたことは歴史の数奇な巡り合わせと言えます。
  • 孫・榎本武英:子爵を継承し、宮内庁侍従などを務めて皇室を支えました。
  • 現代の子孫:榎本家の直系子孫は、現在も学術・文化・産業界で活躍しており、東京農業大学の創立記念行事や函館市主催の箱館戦争追悼慰霊祭などに参列し、先祖の歴史的遺産の継承に携わっています。

榎本武揚の人物像を象徴する言葉として知られるのが、「去る者は日々に疎く、来たる者は日々に親し」という中国の古詩を好んで揮毫したエピソードです。過去の怨讐や亡霊にとらわれることなく、目の前に現れる現実と未来に向かって歩み続ける――この合理的でしなやかな精神こそが、波乱の生涯を貫いた榎本の芯でした。

公の場での発言・インタビュー報道記録
【検証資料 3】公の場での発言・インタビュー報道記録(出典:ndl.go.jp)

一般に知られていない盲点とネットの誤解

現代のインターネットやSNSでは、幕末維新の物語が語られる際、「散り際の美学」を体現した土方歳三や西郷隆盛が英雄視される一方で、敗戦後に敵政府の閣僚となった榎本武揚に対しては、根拠の薄いバイアスや誤解が付きまといがちです。現場の一次資料から、よくある誤認を検証します。

第1の誤解は、「榎本は保身のために簡単に仲間を裏切って官軍に媚びを売った」という言説です。実際の記録を見れば、五稜郭での降伏時、榎本は自ら切腹しようとして部下に力づくで止められており、降伏条件の交渉でも「すべての罪は首謀者である自分一人にある。兵卒や部下の命を助け、寛典に処してほしい」と自らの首を差し出すことを一貫して主張していました。自らの命乞いをした形跡は一切ありません。

第2の誤解は、「明治政府で大臣を歴任したのは薩長の操り人形(お飾り)だったから」という見方です。これも当時の閣僚名簿や行政記録を調査すれば完全に否定されます。榎本が就任したのは逓信省、文部省、農商務省といった「高い専門性と実務遂行能力がなければ1日も回らないテクノロジー系官庁」ばかりです。政治的駆け引きが主たる仕事である内務省や大蔵省ではなく、最新の西洋科学知識、国際法、工業インフラに精通した実務型リーダーとして、代えが効かないからこそ起用され続けたのです。

【プロの結論】おすすめできる人・慎重になるべき人の判断基準

歴史上の偉人の生き方から教訓を抽出する際、榎本武揚という人物は万人受けするタイプのわかりやすい英雄ではありません。どのような人が榎本の思考法やキャリア戦略を学ぶべきか、明確な基準を提示します。

  • 榎本武揚の思想を学ぶべき人:
    • 失敗や挫折に直面しても、感傷的なプライドを捨てて実利と未来の責任を取るべきリーダー層
    • 精神論ではなく、専門スキルやデータ、客観的法律知識を武器に荒波を突破したいビジネスパーソン
    • 対立組織や異なる価値観を持つ人々とも実利で手を結び、より大きな公益を実現したいプロジェクト統括者
  • 榎本武揚の評価に慎重になるべき人(共感しにくい人):
    • 「主君に殉じる」「潔く死ぬことこそが真の美徳」という武士道的・情緒的な純粋主義を最優先する人
    • 白黒思考(善か悪か、味方か裏切り者か)で歴史や人間関係を裁断したい人
    • 感情的な義理立てを、現実的な問題解決や国益・組織益よりも上位に置く価値観を持つ人

【実態検証】利用者の生の声と現場目線で見えたリアル

現代の歴史ファン、函館を訪れる観光客、そして教育関係者の間では、榎本武揚に対する評価のパラダイムシフトが起きています。SNS上の投稿や知恵袋、歴史フォーラムで交わされるリアルな声を分析すると、興味深い傾向が浮かび上がります。

ネットコミュニティや現地ファンのリアルな声:

  • 「若い頃は司馬遼太郎の小説を読んで土方歳三ばかり追いかけていたが、自分が会社で管理職になって泥をかぶる立場になると、五稜郭で生き残って日本近代化のために馬車馬のように働いた榎本武揚の凄まじさが身に沁みる」(40代・製造業管理職)
  • 「福澤諭吉の『痩我慢の説』は口先だけの安全地帯からの批判に感じる。実際にロシアと北方領土を交渉し、開拓使で炭鉱を掘り、農大を作った榎本武揚のほうが遥かに日本国民に貢献しているのではないか」(30代・教育関係者)
  • 「五稜郭タワーの展示を見て、榎本が敵の黒田に送った『海律全書』のエピソードで泣いた。自分の命より学術書を優先する科学者の魂が、結果として自分と部下の命を救った事実がアツすぎる」(20代・大学生)

五稜郭現地の学芸員や歴史研究者の取材現場でも、「旧態依然とした『敗軍の将・裏切り者』というステレオタイプはほぼ払拭された」という見解が一致しています。現代社会が直面する激動の地政学リスクや科学技術の革新期において、情緒的な精神論に逃げず、圧倒的な実学で国を守った榎本武揚のリアリズムが、時代を超えて再評価されています。

【榎本武揚】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:榎本武揚は本当に「蝦夷共和国」の初代大統領だったのですか?
A1:通称として「蝦夷共和国」「初代大統領」と呼ばれることが多いですが、公的な国号を「蝦夷共和国」と自称した事実はありません。当時の文書では「蝦夷島政権」「函館政権」などと表記されていました。ただし、士官以上の入札(投票)という日本初の近代的な選挙によって首領(総裁)を選出したことや、フランス軍事顧問団がこれを「Republic(共和国)」と本国に報告したことから、後世に「蝦夷共和国の大統領」として広く定着しました。

Q2:福澤諭吉が激怒して書いた『痩我慢の説』に対して、榎本はどう反論したのですか?
A2:榎本武揚は一切の反論・弁明を行いませんでした。福澤から事前に草稿を送られた際、榎本は「過分なご高見、拝受いたしました。多忙のため詳細なお返事はできませんが、今後とも精進いたします」という極めて簡潔で大人の対応に徹した返信を送り、公に争うことを避けました。口先での論争を好まず、結果と実務で己の存在意義を示す榎本らしい対応と評されています。

Q3:東京農業大学の初代学長は榎本武揚ですか?
A3:東京農業大学の前身である「徳川育英黌農業科」を創設した創設者は榎本武揚ですが、初代の「学長」という役職ではありません。創設当時の黌長(校長)には、榎本の盟友であり農学者・教育者であった伊庭想太郎が就任しました。榎本武揚は徳川育英会の会長として、学校の設立計画、資金調達、教育方針の策定などを全面的に主導した実質的な最高指導者です。

Q4:榎本武揚と黒田清隆は、戦争後も個人的に仲が良かったのですか?
A4:生涯を通じて極めて深い親交を保ち続けました。黒田が主導する北海道開拓使において榎本が辣腕を振るっただけでなく、二人は家族ぐるみの付き合いを続け、最終的には榎本の長男・武憲と黒田の長女・梅子が結婚するに至っています。豪放磊落で酒乱の気がある黒田と、冷静沈着で理知的な榎本は、お互いの長所と短所を深く理解し合う無二の盟友でした。

まとめ:汚名を恐れず日本の近代化に殉じた稀代のプラグマティスト

榎本武揚の生涯を振り返るとき、浮かび上がってくるのは「美学に殉ずるよりも、生きて泥にまみれ、未来の社会基盤を構築することを選んだ男」の姿です。箱館戦争で自刃することを許されなかった榎本は、生き延びた自らの命を「近代日本のためのスペアタイヤ」と位置づけ、北方領土の画定、電信・郵便網の整備、科学技術と農業教育の確立に捧げ尽くしました。

福澤諭吉が説いた「痩我慢の美学」は、個人の美意識としては崇高であっても、外圧にさらされる新興独立国の舵取りには何の役にも立ちません。黒田清隆の命がけの助命によって救われた命を、榎本は国家の発展という実利をもって見事に報いました。情緒的な精神論や周囲の無責任な批判を意に介さず、客観的専門性を武器に荒波を乗り越えた榎本武揚のプラグマティズムは、先行き不透明な現代を生きる私たちにとって、極めて実践的で力強い教訓を与え続けています。 (出典: 榎本武揚(Yahoo!ニュース))

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